ハート・ロッカー(米,2009)

ハート・ロッカー 〜描かれた死の意味〜


この映画には、いくつかの”死”が描かれている。どれも衝撃的なシーンだ。爆弾処理中の米兵、銃撃戦、テロによる爆死、子どもの死体に民間人の”人間爆弾”など。
「死を描く」ということは、衝撃を描くということだ。わざわざスクリーン上に描かれた死は、物語におけるひとつのイベントであり、ターニングポイントであり、メッセージでもある。重要なのは死そのものではなく、それが意味するもの、そこに込められたメッセージだ。描かれた死が何を表しているかによって、作品の価値は決まってくる。
正直に言って、ホラー映画でもないのであれば観客は単に死を観に来ているのではない。にもかかわらず大スクリーンに死という衝撃が映し出され、否応なくその死と対峙するのである。死を描くのであれば、それなりに意味を持たせてほしい。
残念なことに、この作品の死はほとんどただ描かれているだけで深い意味がない。もちろん作品の舞台は戦場なのだから、おのずと死は連想されるものだろう。戦場にたくさんいる兵士たちの、具体的で個人的な物語が展開される。だが、生と死に向き合い自分と戦う具体的な人間の姿を表現したいと思うのであれば、死をばら撒かなくても、いくらでもやり方はあるはずだ。むしろ死を連想しやすい戦場という舞台で展開される物語であるからこそ、安易な死のばら撒きは、死の衝撃に対するインフレーションを引き起こしがちになる。
死を描くということはそれだけで衝撃的なことなのだから、物語にメリハリをつけたり観客を驚かしたりすることができるのは当然だ。この便利な最終兵器をいかに使わずに観客を惹きつけることができるかが、良作かどうかにかかってくるのだと思う。
この作品は死という便利な道具に頼りすぎているために、人物描写が雑になっている。3人の主要な人物たちの性格や背景や葛藤がきちんと描かれていないので、「(なんかよく分からないけど)きっと大変なんだろうな」という感想しか出てこない。あるいは、そのように思うべきだというメッセージが先走っている。
ジェームズはなぜ無謀な行動に走るのか。エルドリッジは何におびえ何に怒っていたのか。サンボーンはどの時点で考えを変えたのか。最後まで観客には全く分からない。

私は誠意を持って、はじめから終わりまでスクリーンを見つめたのだ。誠意を持って応えてほしかった。